臨床心理士を迎えて

2001.3.31


自費診療で開設するクリニックに、一体、何人の患者さんたちが治療を求めてお出で下さるだろうか (~_~)

 

開設当初は不安があったけど、しかししかし同時に、もう片方には期待がありました (^_^)

 

多くても2-3人の患者さんたちと出会うだけだから、忙しかった日々の生活に時間的な余裕ができるんだァ‐‐‐‐‐ッと.

 

今度こそ、思いっきり本が読めるぞォ・・・・・

 

あの頃の不安と期待を思い返す度に、大変な大変な計算違いを、喜ぶべきか、悲しむべきか、分からなくなる (?_?)

 

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 精神分析治療なんて求める人は、だあれもなくて、こんなクリニックを開設している意味なんてなくて、

需要がなければクリニックを閉めればいい・・

 その日の事を考えて、たったひと部屋の事務室を購入した。


賃貸料を払える自信なんてなかったから、

失敗した時、この事務室を売却してすべてをご破算にしよう。


5年経って、患者さんが一人も来ない日が続くなら、クリニックを閉めよう.

10年経って収支が合わないなら、治療としての精神分析に見切りをつけて医者であり得る何かを他に捜そう。


たったひと部屋の事務室を細かく細かく仕切りして、面接室とプレイルーム(遊戯療法室)、うなぎの寝床の受付窓口。

そして、もうしわけ程度の待合用ベンチ二つ。


それでも工夫して、面接室には2ヶ所の出入口を作った。

いつもいつも決まった時間にやって来られる患者さんたちが、お互いが毎回出会うなんてことがないように・・・、

片方から入り、片方から出る。

元はといえば、たったひと部屋の事務室だから、顔付き合わせる距離でした。


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こうして5年が経たない1983年春、コ・ワーカーとして、臨床心理士の卵を迎えました。


子どもの面接をする時、お母さんのお話も聞きたい.

お母さんのお話をうかがっている間、子どもと遊んでいてもらうために・・・

心理学部のバイト学生。


二年経って、彼女が卒業した。

その頃には、門前の小僧よろしく、彼女に面接技術を伝授していました。

もはや一人前のコ・ワーカーとして、彼女が職員第一号となりました (*_*)

 

2001年3月31日   

院 長   小林 和